“京都はんなりずむ”を訪れて頂きありがとうございます。
京都在住のブロガーKyotaroです。
京都・東山の静かな一角。
豊国神社のすぐ隣にひっそりと佇む「方広寺(ほうこうじ)」を訪れると、ここがかつて日本の歴史を根底から揺るがした舞台だとは、にわかには信じられないかもしれません。
けれど、一歩境内に足を踏み入れれば、そこには豊臣秀吉公が抱いたあまりに巨大な野望の跡と、一族の運命を狂わせた「呪いの鐘」が、今も生々しく息づいています。
先日、京の冬の旅で特別公開されてる方広寺に足を運んできました。
本堂内部は撮影禁止でしたが、今回、静寂の中で目にした、栄華と悲劇の物語を綴ります。
奈良よりデカい!幻の「京の大仏」
昨年、復活した「ブラタモリ」の三十三間堂パートでも触れられてましたが、現在の京都国立博物館の北側には、とある巨大遺構が公園として残されてるのをご存知でしょうか?
タモリさんも実際にその地を訪れ、歩かれた場所こそが、太閤秀吉が挑んだ一大プロジェクトだったんですね。
歴史に“もしも”はないのでしょうが、その“歴史のif”を詳しく見ていきましょう。
秀吉の執念
あなたは、日本で一番大きな大仏といえばどこを思い浮かべるでしょうか。
多くの方が「奈良の東大寺」と答えるはず。
しかし、戦国時代を終わらせ天下人となった豊臣秀吉は「奈良を超える大仏を京に造る」という凄まじい執念を燃やしていました。
自らの力を天下に示すため、約19メートル(木造坐像)という、奈良の大仏(約15メートル)を遥かに凌ぐスケールで計画されたのが、まさに「京の大仏」でした。
失われた巨構
京の大仏を収める「大仏殿」もまた、当時の常識を超えた巨大建築でした。
現在の三十三間堂の北側一帯をすべて飲み込むほどの広大な敷地を誇り、日本最大の木造建築として京の街を見下ろしていたのです。
もしこの巨構が現代まで残っていれば、間違いなく世界遺産の中でも筆頭クラスのインパクトを残していたことでしょう。
悲運の連続
しかし、この「大仏殿」には常に不穏な影が付きまといました。
完成間近に慶長伏見地震で倒壊し、秀吉の死後に再建されるも火災や落雷に見舞われます。
豊臣家の運命と歩を合わせるように、巨大な夢が崩れ去っていく過程は、まさに「諸行無常」そのものでした。
特別公開で見た方広寺「本堂内部」、撮影禁止の静寂を綴る
京の冬の旅の特別公開、残念ながら本堂内部は一切の撮影が禁止されています。
しかし、カメラのレンズを通さないからこそ、その空間の緊張感を肌で感じることができました。
実際に訪ねた時の様子を紹介します。
秀吉の護持仏「大黒天」の迫力
本堂の奥でまず目を引くのが、秀吉公が肌身離さず持っていたとされる「大黒天像」です。
天下人の守り本尊として知られるこの像は、意外にも親しみやすい微笑みを浮かべています。
しかし、その小さな木像から放たれるオーラは凄まじく、天下統一を成し遂げた者の孤独や、一族の安泰を願う切実な祈りが、数百年経った今もそこに留まっているかのようでした。
Kyotaroもしっかりお参りさせて頂きました。
1/10サイズの「大仏雛形」
現在、本尊として安置されている「毘廬舎那如来(びるしゃなにょらい)」は、かつての巨大な大仏の10分の1のサイズで作られた雛形といわれます。
10分の1といっても、実際に目の前にすると圧倒される大きさです。
「この10倍の像が、あの大仏殿の中に座っていたのか……」と想像するだけで、当時の人たちが抱いたであろう畏怖の念が、ひしひしと伝わってきますね。
天井を彩る「花天井」と「神龍図」
さらに堂内で見上げてほしいのが、色彩豊かな「花天井」と、大黒堂の「神龍図」です。
約4.5メートルもの巨大な龍が天井を舞う姿は、撮影できないのがもったいないほどの迫力。
古い木の匂いや、畳のひんやりした感触。
観光地の喧騒から切り離されたその空間には、豊臣家の終わりの予感が、しんしんと降り積もっているような気がしました。
豊臣家滅亡のトリガー「鐘銘事件」の現場へ
方広寺といえば、今は本堂と鐘楼が残るのみで、大仏殿があった当時地は程遠い存在感になっていますが、巨大な梵鐘は今でも訪れた人を圧倒する、そんな異様な存在感を示しています。
それもそのはず、方広寺の鐘は、奈良の東大寺、京都の知恩院と並んで「日本三大梵鐘」の一つに数えられています。
さらに凄いのが、除夜の鐘で有名なあの「知恩院」の梵鐘と直径はほぼ同じですが、高さがひと回り大きなサイズ感で重量はダントツで知恩院の梵鐘70tより10トン以上重い82.7tを誇ります。
今回は普段は入れない、鐘楼の内部、梵鐘を真下から眺めることができる場所まで特別に入ることができました。
見ごたえ充分でした。
梵鐘に刻まれた「国家安康・君臣豊楽」の文字
方広寺を語る上で欠かせないのが、重要文化財の「梵鐘」です。
家康が仕掛けた歴史上もっとも有名な「言いがかり」の現場。
秀吉の死後、秀頼が再興を願って造った鐘に刻まれた文字が徳川家康の逆鱗に触れたのは歴史上、有名な話。
「家康の字を分断して呪っている」、そして「豊臣を君主として敬っている」という論理は、現代の感覚からすれば強引な難癖にしか見えなくはありませんが、この事件が決定打となり、同年の「大坂の冬の陣」、翌年の「大坂の夏の陣」へと突入。
結果、豊臣家は滅亡することになったのです。
実物の鐘の生々しさ
そんな歴史的な「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)」のきっかけとなった梵鐘をKyotaroは生見学してきました。
今回の特別公開に併せて、鐘楼の中まで入って間近に梵鐘を見ることができました。
実際に鐘楼を見上げると、問題の箇所が今も白く囲われていて、その生々しさに驚かされます。
文字一つが、一族を滅ぼす最強の凶器に変わった瞬間。
冷たい鉄の塊に触れるような感覚で、当時の権力争いの恐ろしさを感じずにはいられませんでした。
家康の本音としてはぶっちゃけ、梵鐘に刻まれた文字なんてどうでもよかったのではないでしょうか。
難癖をつけて、勢力を盛り返しつつある豊臣家を滅ぼす「口実」が欲しかっただけ、というのが現代の定説です。
方広寺の詳細、アクセスと駐車場について
●方広寺
TEL:075-561-7676
〒605-0931 京都府京都市東山区正面通大和大路東入ル茶屋町527-2
拝観時間 9:00~16:00 ※特別公開時は公式サイトを確認
拝観料金 境内自由 ※本堂は通常非公開
※京の冬の旅特別公開 大人800円
アクセス 三十三間堂から徒歩5分の距離
・京阪「七条駅」下車、徒歩10分。
・市バス「博物館三十三間堂前」下車、徒歩7分。
駐車場 専用駐車場なし ※近隣コインパーキングを利用。
まとめ
方広寺を歩くことは、まさに豊臣の夢の跡を辿ることといっても過言ではありません。
拝観を終えて外に出ると、隣の大仏殿跡公園には巨大な礎石が並んでいます。
石の大きさと自分の体を比べると、秀吉公が見ていた世界観のスケールに改めて圧倒されます。
方広寺は、単なる古いお寺ではなく、栄華の絶頂と没落の淵が背中合わせに存在する、京都で最もドラマチックな交差点なんですね。
あなたも機会があればぜひ、当時の人々の吐息を感じに、方広寺まで足を運んでみてください。

























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