京都伏見と日本酒とインフラ整備の関係に紐解く伏見の酒、発展の歴史

京都街歩き
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京都在住のブロガーKyotaroです。

京都伏見は言わずと知れた日本酒の産地として知られ、兵庫県の灘五郷に次ぐ全国2番目の酒処です。

ですが、日本酒の産地として発展したのは明治時代になってからと意外に歴史は浅いことに驚かされます。

数多くの歴史舞台となってきた京都伏見がなぜ、全国でも2番目の酒処となり得たのか?実際に歩いてわかったことを紹介します。

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伏見の酒が全国区になったのは伏見城と疎水の関係にあり

明治期の京都伏見は工場地帯となっており、当時は電力の利用も現代のようにはいかず、丹下ダムの水を利用した「水車」を動力源とする水力工場を中心とした伏見の工場地帯が形成されていました。

そして伏見が日本酒の産地として発展した秘密もこの「水車」と深い関りがあるのです。

詳しくみていきましょう。

伏見が酒処として発展した理由

伏見が日本酒の一大産地として発展したのは明治になってから、そして数々の酒造メーカーの酒蔵が建ち並び発展したのは大正時代になってからと云われます。

これを聞いて意外と思う人も多いのではないでしょうか?

近代において急速に日本酒の産地として発展した理由には「水車」と「琵琶湖疎水」2つの存在が挙げられます。

水路跡の正面階段付近にかつて水車があったという

明治期の京都伏見はさきほども紹介の通り、「水車」を動力源とする水力工場を中心とした伏見の工場地帯が形成されており、日本酒の原料として欠かせない米の精米に「水車」が使用され、大量の精米を一気に可能にしたことが酒処として発展した大きな要因です。

琵琶湖疎水の蹴上インクラインが有名ですが、実は伏見にもインクラインがあり、宇治川派流までの疎水運河は上流から下流へと水勢の強い流れを利用した水力工場が伏見に工場地帯の基礎を作り上げたといってもか過言ではりません。

また、疎水運河(濠川)の開通に伏見城の外濠が修築利用され、水運が当時から発達し、上流から下流へお米が、下流から上流へ出来上がった日本酒が運ばれるなど、疎水運河を活用した運送が伏見発展の要因として挙げられます。

伏見の酒を全国区に押し上げた交通インフラ整備

続いて伏見の酒が全国に知られるようになったのには、交通インフラの急速な発展が大きな要因となっています。

明治30年代以降、伏見から全国へ向けて日本酒の出荷が飛躍的に増加し、伏見駅(現近鉄京都線)はその出荷拠点として大きな役割を果たします。

また、大正3年には伏見桃山東陵へ埋葬される昭憲皇太后の柩も伏見駅経由で桃山駅へ向かい、当時の伏見町の人々は伏見駅で列車を奉拝したといいます。

かつて駅舎があったという区画

伏見駅ができたのは1895年(明治28)、JR奈良線の前身である「奈良鉄道」の時代です。

奈良鉄道は開業当時、桃山以北はほぼ現在の近鉄京都線のルートで京都駅まで繋がっていましたが、1921年(大正10)にJR東海道本線の経路変更とともに旧東海道本線の一部を利用する形でJR奈良線は現在の稲荷経由の路線、旧線は桃山・伏見間が貨物線として残されることになります。

最終的に伏見エリアで発展することになるのは、JR(旧国鉄)ではなく、京都から奈良を結ぶ近鉄京都線、そして京都から大阪を結ぶ京阪本線、途中「中書島」から宇治を結ぶ京阪宇治線など2つの私鉄だったというわけです。

伏見駅は文字通り、「伏見最北の玄関口」として大正期に活躍し、この伏見駅から日本酒が日本各地へと出荷されていったのです。

貨物駅としての桃山駅の歴史

1921年(大正10)のJR東海道本線経路変更に伴い、JR奈良線は稲荷経由へ改定され、旧線(現近鉄京都線)は廃止されることが決定します。

しかしながら、伏見駅が平坦地で構内も広く、日本酒の輸送と荷捌きに便利な立地という理由から、桃山・伏見間のみが伏見貨物線として存続するようになるのです。

のち1928年(昭和3)、旧奈良線廃線が奈良電鉄(現近鉄京都線)に転用される際、伏見貨物線は廃止される一方、現大手筋の北側に誕生したのが「桃山貨物駅」でプラットホーム整備と拡張工事が行われたと云われます。

時代はさらに進み、戦後になると高速道路が整備され、日本酒の出荷は桃山貨物駅を経由するよりも配送先等へトラック(自動車)で直接輸送するほうがより一層効率的となり、また旧国鉄の合理化への流れもあり、桃山貨物駅はその役割を終え、1984年(昭和59)に廃止されます。

桃山貨物駅施設は撤去され、一旦、1986年(昭和61)には更地になり、現在は巨大なマンションが建ち並んでいます。

近鉄伏見駅からJR桃山駅まで酒処伏見を歩く

では実際に伏見を歩いてきたときの様子を紹介します。

スタート地点はかつて日本酒の出荷拠点といわれた「近鉄伏見駅」です。

今回のルートでは伏見の街並み、酒蔵はもちろん、鉄道や疎水などかつてのインフラ発展など様々な角度からそれぞれの歴史を楽しむことができ、現在の伏見を楽しむことができるのでおすすめです。

ちなみに訪ねた日はたまたまですが、「キンシ正宗」の蔵開きイベントが行われており、多くの人で賑わっていました。

伏見駅は京都最古の高架駅

さて、伏見駅をスタートしたのですが、駅の北側を国道24号線が走っているので、今回は駅の南側、住宅街の方から歩き始めました。

まず最初に見ることができるのが、京都最古の高架を真下から見ることができます。

そもそも鉄道が高架になっているのは、幹線道路と交差しないように、という理由があります。

確かに下から見上げると素人目に見てもかなり古い高架になっており、さらにその上に伏見駅があるのでやや老朽化が心配になるくらいの年季が入っているのを感じます。

伏見にもあったインクラインと疎水

鉄橋の向こう側には水が勢いよく流れる伏見インクライン跡がある

伏見駅をスタートして線路沿いに東へ進むと川が出てきます。

川というよりは大きめの用水路で水流も早く、勢いよく流れているのがわかります。

こちらが琵琶湖疎水で上流の方(イズミヤ付近)にはかつて「伏見インクライン」があった場所といわれ、このあたりの水勢はかなり強く、水力発電所なのか?というくらいの勢いで水が流れてるのが目視できるほど。

この疎水の上には現在も近鉄電車が走っており、橋梁を支える土台がレンガ造りになっており、かなりの歴史をここでも垣間見ることができます。

よく見るとこの古いレンガ造りの土台には橋梁の重量が一切かかっていない、造りになっているのがわかります。

かつてのJR奈良線は桃山駅から山沿いではなく、現在の伏見駅の方向へと向かうルートを辿っており、その当時にはこの赤レンガのすぐ上を鉄道が走り、この川を横切って現在の道路と同じ高さに線路があったといわれます。

伏見を歩いていると独特の欄干をしたレトロ調の橋が複数架かっているのに気づくと思います。

伏見駅近くの疎水に架かる橋は津知橋とよばれる橋で南側(伏見方向)を眺めると閘門のある水門が見えます。

伏見に架かる名橋

伏見インクラインから宇治川派流(現在、伏見十石舟が運行している水路)との合流地点までの疎水運河(濠川)は、伏見城の外濠を修築して利用されたものであり、伏見駅から南のエリアは、当時の伏見町北部にあたり、水車工場が林立していました。

その関係から江戸時代からあった橋は近代的な橋へと架け替えられていき、先ほど紹介の「津知橋」のほか、当時の面影を今に残す「上板橋」などがあります。

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東住吉橋から眺めた用水路

また、1923年(大正12)から開削工事が始まった疎水放水路(現・京都市立伏見住吉小学校北側)には「東住吉橋」が架けられたほか、明治以降あらたに架けられた「常盤橋」や「いものや橋」などがあり、歴史を物語る伏見の名橋として特徴的な欄干を見ることができます。

常盤橋

日本酒の全国出荷を加速させた「常盤通」とは?

近世初期、伏見には南北を縦貫する3つの通りがありました。

京町通

いずれも旧伏見城外濠の内側に開かれた道路で東から順番に、伏見街道へ繋がる「京町通」、日本最初の銀座が設けられた「両替町通」、そして「新町通」です。

両替町通

これら道路は明治維新後も引き継がれ、大正年間には旧外濠西岸沿い道路と丹波橋通で寸断されていた旧尾張藩邸東側の道が先ほど紹介の「常盤橋」によって繋がり、伏見4番目の南北縦貫道路「常盤通」が誕生することになります。

新町通(一方通行)

もともとあった3つの南北縦貫道路は現在でもそうなのですが、道幅がさほど広くなく、唯一「京町通」には一時期、路線バスが運行していたのですが、大型車は右左折に苦労するほどの道幅しかなかったといいます。

その点、常盤通は道幅に比較的余裕があり、戦後には大型貨物車両の登場により、酒蔵から直接、日本酒を全国に出荷できる時代となり、コスト面でも主要な輸送ルートとして定着していくことになるのです。

北の酒蔵地帯から丹波橋駅へ

伏見に架かる名橋、日本酒の全国出荷を加速させた交通インフラとしての常盤通の誕生に思いを馳せながら進むとまず最初に登場するのが「キンシ正宗」の酒蔵です。

この付近は伏見でも北側のエリア(丹波橋周辺)にあたり、「キンシ正宗」こと「堀野商店」のほか、「月桂冠」で知られる「大倉酒造」が北蔵と呼ばれる酒蔵を構えていた地です。

もともと尾張藩邸や造幣所としての役割を果たす「銭座」があった場所でもあり、酒蔵が建ちだしたのは明治期以降と云われます。

広大な藩邸跡地の現在(小学校になっている)

その後、昭和の時代には鉄筋コンクリートの酒蔵も登場しだし、主要な酒の生産地としての地位を築いていくことになるのです。

他にも尾張藩邸跡地の西側には「鶴正宗」の銘柄で知られる「谷酒造」の酒蔵が、丹波橋駅の西側には「仙界」という銘柄の酒蔵がありました。

ちなみに「仙界」の酒蔵は1988年(昭和62)に下鳥羽へ移転し、現在は「呉竹文化センター」という文化ホールが1900年(平成2)8月に開館しました。

「呉竹文化センター」建物外観は酒蔵を意識したデザインとなっています。

常盤通から丹波橋駅へと上がっていく緩やかな坂道はとても有名で人気テレビ番組でも紹介されたことがあるくらいです。

途中、新町通、両替町通、京町通の順に横切って京阪の丹波橋駅前(呉竹文化センター)へたどり着きます。

桃山の区画整理に消えた伏見貨物線を辿ってみた

伏見駅から丹波橋を経由して桃山駅を繋いでいたかつての「伏見貨物線」を区画整理された桃山の住宅街を歩きながら辿ることができます。

但し、「●●跡」などの案内看板等は一切ありません、が看板のないところをいろんな推理をしながら辿るのもワクワクしますね。

京阪丹波橋駅から近鉄丹波橋駅南側の踏切までやって来ましたが、とある事に気付きます。

そう、近鉄丹波橋駅南側には改札口がないのですが、どうやら改札があった名残があります(現在、近鉄丹波橋駅の改札は、京阪丹波橋駅の改札と高架連絡通路で繋がっています)。

線路が途切れている(かつて一方通行の標識が踏切だった)

踏切を渡った先で近鉄線路幅が縮小されているのがわかるのですが、このあたりに桃山の区画整理を垣間見ることができます。

「伏見貨物線」は伏見駅から近鉄丹波橋駅を経て御香宮神社の北付近を通過して現在のJR奈良線に繋がり、そして桃山貨物駅へと到達していたのですが、現在は桃山の区画整理によりその痕跡を辿ることは全く困難な状態です。

現在、御香宮神社の東側を国道24号線が走り、それに沿うようにJR奈良線が急激にカーブしている陸橋がある箇所があるのですが、当時はカーブせずにそのまま現在の国道24号線を突っ切って住宅街のなかを走り、近鉄丹波橋駅へと繋がっていたのです(現在は会社ビル、住宅地になっています)。

最終的に桃山貨物駅跡であったというマンション群を横目に見ながら、JR桃山駅に到着、ここから振り返ったマンションの風景がかつては「桃山貨物駅」があった場所、というわけです。

ここまで歩いてかかった所要時間は休憩いれて約2時間強でした。

伏見北の酒蔵地帯へのアクセス

●伏見北の酒蔵地帯(丹波橋)
■伏見駅(近鉄)
・近鉄京都線 普通列車(各停)のみ停車
・京都駅より12分
・キンシ正宗まで徒歩15分
■丹波橋駅(近鉄・京阪)
・近鉄京都線 急行、普通列車(各停)が停車
・京都駅より8分
・京阪本線  特急、急行、準急、普通列車(各停)が停車
・祇園四条駅より12分
・キンシ正宗まで徒歩7分
■伏見桃山駅(京阪)
・京阪本線  普通列車(各停)のみ停車
・祇園四条駅より分
・キンシ正宗まで徒歩21分
■桃山御陵駅(近鉄)
・近鉄京都線 急行、普通列車(各停)が停車
・京都駅より9分
・キンシ正宗まで徒歩13分
■桃山駅(JR)
・JR奈良線  普通列車(各停)のみ停車
・京都駅より12分
・キンシ正宗まで徒歩16分


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まとめ

京都伏見は歴史上、ふたつの町割りが形成された町として知られ、丹波橋、桃山駅界隈は道路が格子状となり、洛中同様の碁盤の目となっています。

しかし、詳細に伏見の町を見ると西部は江戸時代からの宿場町の町割りで、東部は昭和以降の区画整理の街路という異なった景観をもつという同じエリアでふたつの町割りを見ることができる珍しい地区です。

歴史上、町の成立過程が違うことによるものですが、江戸期には各藩の藩邸が数多く存在し、宿場町が発展した町が、戦後急速に日本酒の産地として発展を遂げた歴史が織りなす町並みが伏見の最大の特徴なんですね。

どちらかというと酒蔵街歩きや宿場町跡、酒蔵の街並みを楽しめることから観光で栄えているのは伏見の南側のエリア(伏見大手筋~京阪中書島駅)ですが、今回は伏見の北側を歩く醍醐味を紹介させて頂きました。

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この記事を書いた人
Kyotaro

京都在住、念願の京都に1戸建て住宅を新築購入した既婚の53歳、フツーの会社員。子供は3人で男ー女ー男の“二太郎+一姫”。将来は奥さんと京都でお洒落なカフェを営むことができればいいな、とささやかな夢を持っています。どうぞよろしくお願いします。

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