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京都在住のブロガーKyotaroです。
2025年9月20日放送の「ブラタモリ」で紹介された国宝・三十三間堂、南大門、太閤塀、そして豊国神社、大仏殿跡。
このルートを歩いてみると単に歴史的な寺社を巡るだけでなく、豊臣秀吉が京都で築いた巨大な都市計画の痕跡を、タモリさんの視点を通して追体験できる魅力的なものでした。
実際にKyotaroが歩いてきた様子を紹介します。
詳しく見ていきましょう。
秀吉が京都改造の起点とした「三十三間堂」から「豊国神社」
2025年9月20日の放送でタモリさんが辿ったルートは、三十三間堂を起点に、その周辺に残る豊臣秀吉による巨大プロジェクト、方広寺大仏殿と豊国神社の痕跡を巡るものです。
この一帯は、秀吉が京都の都市改造を進める上で最も重要視したエリアのひとつであり、その規模の大きさと権力の象徴が随所に垣間見えます。
三十三間堂
ブラタモリのスタート地点となった国宝・三十三間堂(蓮華王院)は、平安時代末期に後白河上皇によって造営されました。
現在の建物は鎌倉時代に再建されたものですが、そのスケールは圧巻そのものです。
圧倒的なスケール!その名の由来は?
三十三間堂は、その名の通り、柱と柱の間の窓が33あることから「三十三間」と呼ばれています。
具体的には、本堂の正面の柱間が33あり、その長さは約120mにも及びます。
両端の柱間は廊下なので数えない、とブラタモリでも話題になっていましたが、その窓を含めると窓が35あるということですね。
本堂内部には、中央の十一面千手千眼観世音菩薩坐像(国宝)を中心に、左右に整然と1000体の千手観音立像(重文)が並びます。
これらの像は、一体一体が異なる表情をしており、その威容は言葉では表せないほどです。
風神・雷神像: 観音像の最前列には、風神・雷神の像が配置されており、三十三間堂の観音像を守護しています。
秘められた「京の東西軸」の起点
ブラタモリ番組内でタモリさんが注目したのは、三十三間堂の配置です。
実はこの場所は、京の都の「東西軸」の東端、あるいはその重要な起点の一つとされています。
三十三間堂の本堂は東向きに建てられています。
これは、本堂の正面が東側(日の出の方向)にあるということです。
堂内に安置されている千手観音立像1000体や二十八部衆像は、ご本尊の千手観音坐像とともに、東面しています。
これは、後白河法皇(三十三間堂創建の発願者)の眠る法住寺陵を向いているためとも言われています。
ただし、1001体のうちの1体(本尊の裏側に安置されている千手観音立像)だけは、西向きに安置されています。
建物の構造上、東向きであるため、特に晴れた日の午前中は、東側の障子を通して光が入り、仏像を拝観するのに良いとされています。
このエリアは鴨川の東、洛東と呼ばれ、古くから多くの寺社が建立されていました。
三十三間堂は、その中でも特に規模が大きく、後白河上皇の権勢を象徴する場所、まさに「洛東」の要だったのです。
柳の木に隠された地名のヒント
三十三間堂の敷地内には、柳の木が多く植えられています。
これは「柳の馬場(やなぎのばば)」という、後白河上皇の院政時代の重要な軍事・政庁の場所と関連があるのではないかという説が紹介されました。
当時の場所の記憶を、植物がひっそりと伝えているという視点は、まち歩きの醍醐味です。
南大門
三十三間堂の境内を出て南側へ向かうと、かつてこの一帯が巨大な寺域であったことを示す南大門があります。
一見するとこの門は何なの?という門構えになっていて、なんともいえないところが京都ミステリー、という感じですね。
南大門は三十三間堂の一部なの?
実はこの南大門は、厳密には三十三間堂の正門ではありません。
これは、秀吉が方広寺大仏殿を建立した際に、その巨大な寺域の南側の入口として整備された門だと考えられています。
南大門が移築された可能性
南大門はその様式から、どこか別の場所にあった門を移築した可能性も指摘されています。
まち歩きでは、門の造りや瓦など細部に目を凝らすと、その歴史の変遷を感じることができます。
門の下で目を凝らして、その建築様式をみてみましょう。
秀吉の太閤塀
南大門のすぐ南側には、高さのある土塀が続いていますが、これが「太閤塀(たいこうべい)」です。
高さ約5.3m、長さ約92mの立派な築地塀で、軒丸瓦には豊臣家の家紋である五七の桐(ごしちのきり)が見られます。
秀吉が築いた権威の象徴
太閤塀は、豊臣秀吉によって三十三間堂に寄進されたものです。
秀吉は、豊国神社や方広寺大仏殿を含む広大な寺社群をこの周辺に造営しており、その一部として三十三間堂の塀も整備されました。
圧倒的な高さと構造
太閤塀は他の寺社の塀と比較しても、その高さは異例で約5.3mもあり、秀吉の権威を誇示するためのものだったことがわかります。
土塀の上部には瓦が葺かれ、頑丈で美しい構造を保っています。
地割りの手がかり
太閤塀の存在は、現在の街並みの中にも秀吉が定めた当時の巨大な区画「地割りの線」が明確に残されていたという手がかりになっています。
これらを辿ることで、現代の京都の裏側に隠された、秀吉の都市計画の大きさを実感できます。
京都国立博物館
三十三間堂の北側に広がるのが、京都国立博物館の敷地です。
この敷地全体が、かつては秀吉の方広寺大仏殿の巨大な境内に含まれていました。
西門から全景を眺望
博物館の西門がある場所は、方広寺大仏殿の巨大な正門(※南大門とは別)があった場所に近いとされます。
この門を入ると、かつての大仏殿へと続く広大な空間が広がっていたことを想像できます。
近代建築の粋
西門の北側には、明治古都館(旧帝国京都博物館本館、重要文化財)の優雅なレンガ造りの建物が望めます。
近代日本の歴史と、秀吉の歴史が同じ敷地内で交差しているのが興味深い点です。
巨大石垣
ブラタモリで特に注目されたのが、博物館敷地の東側、三十三間堂通りに面して築かれている巨大な石垣です。
この巨大な石垣は、方広寺大仏殿の寺域を区切るための、あるいは大仏殿自体の巨大な土台の一部であった可能性が指摘されています。
また石垣をよく見ると、石の一つ一つに刻印(記号や文字)が刻まれているのが確認できます。
これは、秀吉が全国の大名に命じて石を運ばせた「石材の供出」の証拠であり、どの藩がどの石を運んだかを示す「担当区分」の名残です。
この刻印石は、秀吉の権力の大きさと、いかに全国的な動員体制で大仏殿が築かれたかを物語っています。
博物館周辺を巡る際は、ぜひこの刻印を探してみてください。
豊国神社
京都国立博物館の北側には豊国神社があります。
いわずと知れた秀吉を祀る社で一年を通じて多くの参拝者が訪れます。
秀吉の死と神格化
豊臣秀吉が亡くなった後、その廟所として建てられ「豊国大明神」として祀られたのが始まりです。
秀吉の死後、徳川家康によって豊臣氏が滅ぼされると、この社は廃絶されます。
現在の社殿は、家康によって廃絶された後、明治時代になって再興されたものです。
豊国神社の最大の見どころは、桃山時代の豪華絢爛な様式を伝える唐門(国宝)です。
元々は、秀吉が建てた伏見城か、あるいは方広寺大仏殿の付属建築であったものが移築されたとされています。
柱や扉には「彫刻の鬼」と言われるほどの精緻で豪華な彫刻が施されており、桃山文化の華やかさを今に伝えています。
鳥居の謎
豊国神社の正面の鳥居は、普通の神社の鳥居とは異なり、柱に控え柱を持つ独特の形をしています。
これは「豊国鳥居」と呼ばれる独自の様式で、豊臣家の威光を示すものでした。
現在残っている鳥居は再建されたものですが、その形式に秀吉のこだわりが残されています。
幻の巨大寺院、方広寺の大仏殿跡を辿る
秀吉の巨大都市計画の核となったのが、方広寺に建立された大仏殿です。
この大仏殿は、奈良の大仏殿を上回るスケールを目指しましたが、度重なる災害や戦火により、現存していません。
しかし、その痕跡は今の京都の街並み、特に地名に色濃く残っています。
大仏前という地名が示す大仏の痕跡
現在の三十三間堂、豊国寺や方広寺の周辺を歩くと「大仏前」という交差点や、地名が残っていることに気づきます。
この「大仏前」という地名こそ、かつてこの場所に文字通り巨大な大仏殿の正面があり、多くの参拝客で賑わっていたことの証。
現在、交番や一般の建物が建っている場所にも関わらず、地名として「大仏前」が残っているのは、いかに大仏殿の存在が当時の京都の人々にとって強烈なものであったかを物語っています。
タモリさんもこうした何気ない地名にこそ、過去の歴史が刻まれているという視点で街を巡っておられたのではないでしょうか。
「大仏前」という地名を見つけたら、そこで立ち止まり、頭の中で巨大な大仏殿をイメージしてみましょう。
方広寺、大仏殿があった寺院の今
現在の方広寺は、かつての巨大な寺院の一部を残すのみとなっています。
境内は静かで、当時の賑わいを想像するのは難しいかもしれません。
境内には、江戸時代に再建された際の巨大な梵鐘(重要文化財)があります。
この梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、徳川家康の怒りを買い、大坂の陣のきっかけの一つになったという、歴史上の有名なエピソードが残されています。
また寺の敷地や周辺の地面をよく探すと、かつての大仏殿を支えていた巨大な礎石の一部が残されていることがあります。
これらは、大仏殿の規模がどれほど巨大であったかを測る、唯一の物理的な証拠とも言えます。
方広寺からの大仏跡へ行き方
豊国神社の本殿前にある豊臣秀吉像の手前を左手に進むと方広寺の大きな鐘楼が見えてきます。
その右横に細い通路が東に向かって続いており、その路地を進んでいき、広い道路に出てすぐ右手に方広寺大仏殿跡の看板、緑地公園が見えてきます。
痕跡からはっきりわかるのですが、位置的には豊国神社本殿の真後ろ=東側にかつて巨大な大仏殿があったということになります。
そして方広寺大仏殿跡の南側は京都国立博物館がはっきりと見えます。
京都の碁盤の目を逸脱するほど存在感?
大仏殿が消失した後、その広大な敷地は細かく分割され、現在の市街地へと変わっていきました。
かつて大仏殿があった周辺の路地は、京都の他の地域に見られるような「碁盤の目」の区画から、わずかに歪んでいたり、細くなっていたりすることがあります。
これは、巨大な大仏殿の敷地を避けるように、あるいは敷地の一部を取り込む形で、後世の街づくりが進められたからです。
タモリさんが辿ったように方広寺から周辺の路地を歩くと突然道が折れ曲がったり、狭くなったりするポイントに遭遇するかもしれませんね。
そうした“道の不自然さ”こそが、大仏殿という巨大な存在があった証拠といえるでしょう。
大仏殿跡、空虚な空間の想像
大仏殿は、地震や火災などにより失われ、現在、その建物自体を見ることはできません。
しかし、その跡地には、その痕跡が残されており、八角形だったと思われる大仏の台座の石組みの位置がわかるようにベンチが配置されています。
ブラタモリでも紹介されていましたが、まさにこれこそが歴史を体感する重要な要素ですね。
大きさは奈良の大仏クラス?いや、それ以上?
秀吉が京都に造営した大仏殿の大仏は、奈良の大仏よりもさらに巨大であったと記録されています。
その大きさを想像しながら跡地に立つと、当時の人々の驚きや、秀吉の並外れた権勢を感じることができます。
現在は、建物もないのですが、過去の文献に描かれた大仏の様子、方広寺伽藍の推定復元図から奈良の大仏より巨大な大仏が大仏殿に存在していたのではないか?と云われています。
京都国立博物館、豊国神社参拝に訪れた際に、ぜひ訪ねてみては如何でしょうか?
Kyotaroも方広寺大仏殿跡に行ってみて、改めて京都にも大仏があったのか!と思わず感慨深くなりました。
三十三間堂へのアクセスと駐車場について
●三十三間堂(蓮華王院)
TEL:075-561-0467
〒605-0941 京都府京都市東山区三十三間堂廻り657
■拝観料金 大人600円 中高生400円 小学生300円
■拝観時間 ※季節により異なる
4月~11月15日 8:30~17:00
11月16日~3月 9:00~16:00
※受付終了は30分前
■アクセス ※京都国立博物館の南向い
・JR京都駅より市バス100・206・208系統「博物館三十三間堂前」下車すぐ
・JR京都駅より徒歩約18分
・京阪電鉄「七条駅」下車、徒歩約6分
■駐車場 参拝者用無料駐車場あり(50台)
まとめ
豊臣秀吉が京都改造にかけた情熱と巨大な権力を体感する旅、いかがでしたでしょうか。
今回は、平安の三十三間堂を起点に、南大門、そして秀吉の強大な権威を示す太閤塀や京都国立博物館に残る巨大石垣(刻印石)を辿りました。
地名に残る「大仏前」や、現存する方広寺の梵鐘と礎石は、幻に終わった方広寺大仏殿の圧倒的な規模を今に伝えています。
秀吉の都市計画の痕跡と桃山文化の華やかさを残す豊国神社の唐門を見学し、現代の京都に隠された「太閤の夢」を感じてみませんか。
※まち歩きの帰り、豊国神社前の「甘春堂」さんへ寄り道して、ブラタモリでも紹介された「大佛餅」を買って帰りました。
これも今は無き大仏を想わせてくれる、銘菓で当時の製法を忠実に再現したお餅なのだとか。
ぜひ、豊国神社、大仏殿跡を訪れたあとに立ち寄ってみては如何でしょうか?※店休日にご注意下さい。
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