京都紫野の由来は?源氏物語の王朝絵巻の舞台、牛若丸の生誕地を歩く

京都街歩き
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京都在住のブロガーKyotaroです。

今回は人混みを避けた京都街歩きの紹介、京都紫野編です。

コロナ禍が明けて京都の有名観光地はすでにオーバーツーリズムによる大混雑、市民の生活に影響が出始め、各地では八坂神社の夜間鈴緒使用禁止や“舞妓パパラッチ”対策看板の設置、ゴミの問題などマナー違反が問題となり、様々な規制が話題となっています。

そんな混雑を避けた京都の楽しみ方の一つを紹介します。

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京都紫野の由来とは?

紫野(むらさきの)は平安京の北に位置し、平安初期の一帯は広大な荒野で当時は貴族たちの狩猟地にもなっていた場所でもあります。

普段から京都紫野の街中を観光で訪れる人も少ないと思いますが、強いて言えば「大徳寺」は外国人観光客も多く、混雑してるエリアですが、ほとんどの人はすぐ近くの「金閣寺」がお目当てでセットで大徳寺を訪れる人が多いようです。

地名の由来には諸説あるようですが、有力なのが高貴な紫色の染め物の原料「紫草」が生えていたからという説。

他にも「村の先」が由来とする説や紫式部が生まれた地という説などがあります。

紫式部には紫野で生まれたという説には、大徳寺の真珠庵にある「紫式部産湯の井」と伝わる井戸の存在も影響してるようです。

今回は、紫野のさらに北に位置する紫竹(しちく)という場所、紫竹栗栖交差点から街歩きをスタートしましたのでその時の様子をシェアします。

京都紫野は紫式部と牛若丸の生誕地

そもそも京都紫野が栄えたのはのちに紹介する「雲林院」の礎となる、平安初期の天皇・淳和天皇の離宮・紫野院がこの地に創建されたことに始まります。

但し、平安初期といえば京都紫野は人里離れた荒野であったことから、本当にこの地で紫式部が生まれたのか?は定かではありません。

そしてこの地で生誕したという紫式部の産湯の井が大徳寺真珠庵(非公開)に残されていること、さらに京都紫野には源氏ゆかりの地という言い伝えも遺されており、牛若丸(源義経)の父親にあたる源義朝の別邸があったとも云われ、牛若丸の生誕地とも云われます。

実際に歩いてみると牛若丸だけでなく、母の常盤御前ゆかりの寺院(常徳寺、光念寺)が界隈にはあり、牛若丸が修行で籠ったという鞍馬からも比較的近い場所であることなどから、有力な説として言い伝えが残されています。

雲林院と有栖川、若狭川のあった場所を辿る

雲林院は大徳寺塔頭寺院として北大路通を挟んだ南側にひっそりと佇む小さな寺院ですが、平安時代には現在の大徳寺と変わらぬ境内の広さを誇り、大きな伽藍など栄華を極めた時代があったことが近年の発掘調査でわかりました。

雲林院の南には平安京へと続く大宮通が通っており、古地図の示す雲林院の敷地の大きさがその栄華を物語っており、前進が淳和天皇の離宮・紫野院があったことも頷けます。

当時は桜や紅葉の名所であったこともあり、「源氏物語」をはじめ、「今昔物語集」「大鏡」などにも登場しています。

また、今回の街歩きで気付いたのが道路が碁盤の目が基本の京都において、紫野(むらさきの)には結構、斜めに走る通りが遺されており、また土地のアップダウンが所々あるのは、当時この地を流れていたとされる有栖川や若狭川の流れの影響でもあります。

現在もその痕跡らしき水路が大徳寺横の側溝として垣間見ることができました(現在は児童公園や住宅地になっている)。

このように古地図から当時の京都の歴史を辿ってみると当時と現在のいろんな位置関係が見えてくるのでおもしろいかもしれませんね。

源氏物語の舞台、紫式部はじまりの地、そして牛若丸の生誕地を歩く

京都紫野を歩いていて思ったのは紫式部ゆかりの地だけではなく、牛若丸をはじめ母の常盤御前や父親の源義朝ゆかりの地が結構あり、それらを辿っていくことが出来る史跡が街中にひっそりと残されている、ということです。

紫野の北部エリアにあたる「紫竹(しちく)」を出発し、すぐ近くには牛若丸産湯井の石碑が建っており、すぐ近くには胞衣塚も遺されています。

もともと紫竹の地は竹林があったといい、特に黒竹(くろちく)が多かったといわれており、それが「紫竹(しちく)」の地名の由来にもなったという説があります。

実際に牛若丸産湯井の石碑近くには規模は極小ですが、黒竹の姿を見ることができました。

紫竹から紫野へ、大徳寺を抜けて雲林院、玄武神社、そして紫式部墓所までのルートに点在する史跡をここでは紹介します。

牛若丸産湯井

牛若丸(源義経)が生まれたという場所に石碑が建っており、1159年(平治元)にこの地で生誕しました。

石碑には産湯井・胞衣塚の文字が刻まれ、石碑には室町末期となる1395年(応永2)の年号まで刻まれています。

現在は個人の所有地になっており、そこに石碑が建てられているのですが、かつて明治のころまで牛若丸産湯大弁財天女社の小宮があり、開運のご利益があると崇められていました。

看板には幕末の頃の図が記載されていて付近の大徳寺をはじめ、今宮神社などとの位置関係から現在地がほぼ特定されています。

看板を見ると近くを川が流れており、実際に歩いた斜めの通りに沿うように当時の大徳寺方向に流れていたことが伺えます。

また斜め左上方向に延びる道は、鷹峯を経由して若狭方面(現在の福井)へと繋がる第二の鯖街道ともよばれた当時の交易の主要道として栄えた歴史街道の一つ(現在の周山街道)でした。

總神社

山城國一之宮・賀茂別雷神社三十八社のひとつで創建年代は定かではありませんが、賀茂御読経所聖神寺の鎮守社として社僧が崇敬した神社と云われ、社僧の始まりが天武天皇の白鳳年間の頃なのでその頃の創建ではないか?と推察されます。

菅原道真公が九州大宰府へ流刑となった際に總神社宮守であった叔母を訪れたと云う故事、また源義朝別邸がこの紫竹エリアにあったことから菅原道真公、そして源義朝公の神霊をお祀りしています。

他にも天穂日命(あめのほのみこと)、八幡大神(はちまんおおかみ)も御祭神としてお祀りしています。

境内には“恋文の樹”と呼ばれる多羅の木があり、当時は多羅の木の裏に文字を書いて手紙として使用されていたことからこの名が付けられました。

大徳寺

臨済宗の大本山で1315年(正和4)に宗峰妙超(大燈国師)によって創建、のちに後醍醐天皇の祈願所となり、京都五山の最上位に列するも後醍醐天皇の失脚により、足利政権時に格を大幅に下げられ十刹の第9位、さらに十刹の位を辞し、禅の道を究める寺院となる歴史を持つ。

応仁の乱によって焼失するも一休宗純が堺の豪商から支援を受け復興し、戦国末期には秀吉が織田信長の葬儀を大徳寺内で挙行、擁護したことから茶の湯の隆盛とともに多数の戦国武将の帰依を受け、寺勢が栄え今日に至ります。

境内は二十余りの塔頭寺院に囲まれているが、当初は伽藍の建ち並ぶ東側のみの敷地であったがのちに西側に寺域を拡大していき、現在の広さになったことが、塔頭寺院の創建年代から辿ることができます。

国宝でもある唐門は聚楽第の遺構で京都三唐門のひとつに数えられ、また三門には千利休が秀吉の逆鱗に触れ切腹に追い込まれる有名な逸話が遺されています。

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開かずの門「梶井門」は必見

室町時代初期の頃、現在の大原三千院は「梶井門跡」として現在の船岡山の北部にあったと云われます。

現在の大徳寺の南東角にある開かずの門が「梶井門」と呼ばれ、当時の梶井門跡の門であったという言い伝えが遺されています。

現在も大徳寺の門として使用されず、近づくこともできません。

雲林院

淳和天皇の離宮・紫野院が仁明天皇から皇子の常康親王に受け継がれた後、僧正遍昭により「雲林院」という寺院となります。

これが「雲林院」のはじまりで「源氏物語」のなかで光源氏が藤壺との仲がうまくいかず、思い悩んでこの雲林院に籠ったという描写があります。

現在の観音堂には十一面千手観世音像と大徳寺開山の大燈国師像が安置されています。

寺院として鎌倉時代の頃にかけ衰退、大徳寺の塔頭寺院となるも応仁の乱で廃絶に追い込まれた歴史があり、1707年にかつての寺名を受け継いで再興されました。

もともと大徳寺が雲林院の寺域を譲り受けたという説があり、その恩から再興させた説が遺されていますが、当時の雲林院の境内と現在の大徳寺の位置関係はイコールではないのですが、現在の大徳寺の境内は当時の雲林院の北側にあたるため、なんらかの所用地のやりとりがあったのではないか?とも云われています。

歴史はこうやって辿っていくとなかなか面白いですね。

弁慶の腰掛石

雲林院の南側の住宅地にあるお米屋さんの敷地内には弁慶の腰掛石と伝わる石があります。

個人宅のため見ることはできませんが、店頭には弁慶の腰掛石を紹介する看板がありますが、実は牛若丸と戦ったという五条の橋(松原橋)は、現在の五条大橋ではなく、雲林院付近の川にかかっていた「御所の橋」ではないか?との説があります。

「御所の橋」はお米屋さんの近くであったことから、武蔵坊弁慶が太刀千本目を奪うために座っていた石こそがお米屋さんの庭にある石、ということらしいのですが、真実は定かではありません。

衣掛塚

同じく雲林院から南側の住宅街に突如として現れる常盤井。

大徳寺の南側にあたるこのあたりは当時からたくさんの塚があったとされ、皇室ゆかりの塚については宮内庁から明治維新後に指定があったそうですが、その指定から漏れた塚で常盤御前が衣を掛けたという言い伝えがある衣掛塚が住宅街裏の土地にそのまま残されています。

本当に塚なのかどうなのか?という確証はあいませんが、塚として現在も遺されていました。

家と家の間の狭い通路を通り抜けた先にあるので土地勘がないとなかなか辿り着けませんが、Google mapで「常盤井」を目印に訪ねてみて下さい。

常盤井横の細い通路の先に「衣掛塚」があります。

若宮神社

源頼光邸宅跡と云われる「若宮神社」。

地元の氏神様として古くからこの地に鎮座する八幡宮で提灯に描かれた鳩は何気に阿吽に、本殿の扁額に描かれた八幡宮の八が鳩が向き合う絵になっています。

春には隠れた桜の名所にもなっており、本殿前に桜が見事に咲き誇ります。

玄武神社

かつて雲林院の東南角にあったという神社で京都における「やすらい祭」発祥の神社として知られます。

その名の通り、現在も京都北方の守護神社として方除け、厄除け、疫病退散のご利益がある神社として崇拝されています。

背後に建つ巨大なマンションを建てる時(2000年)に雲林院に関わる史跡が発掘され、貴重な資料となりました。

紫式部墓所

紫野の堀川北大路近くには小野篁と紫式部の墓があり、この二者の墓が並んで建っています。

そもそもこの二人は生きた時代も違えば(200年の隔たり)縁もゆかりもないのですが、因果関係として紫式部が描いた「源氏物語」が男女の情愛を描いた創作物語であったため、当時の人々を惑わす創作が「嘘」と捉えられたため、死後、紫式部は閻魔大王から地獄行きを告げられそうになったとか。

閻魔大王に仕えていたという小野篁が「これはいかん」と紫式部を弁護して、助けたという逸話があり、「源氏物語」の支持する人々から小野篁の横に墓を造ることで地獄行きは免れるであろうという願いを込めて建てられたそうです。

源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の記述によると紫式部の墓は雲林院白毫院南の小野篁墓地の西と記載があり、現在、千本ゑんま堂にある紫式部供養塔は白毫院より移設されたものと云われます。

9月になると墓所の入口付近にはムラサキシキブ(コムラサキ)の実が鮮やかな紫色に染まり、彩りを添えます。

大徳寺へのアクセスと駐車場について

●大徳寺
TEL:075-491-0019(大徳寺)
〒603-8231 京都府京都市北区紫野大徳寺町53
■拝観時間 10:00?16:30(16時受付終了)
■拝観料金 時間、料金は公開塔頭により異なる
■アクセス 京都駅から地下鉄と市バスを乗継
・京都市営地下鉄烏丸線、「北大路駅」下車、市バスで5分
・市バス/「大徳寺前」下車、北西へ200m正門入る西南角
■駐車場 有料駐車場あり
(普通車50台、2時間まで500円、以後30分毎に100円)
※近隣の「風良都ぱーく36」は60分100円なので2時間滞在でも200円でOK


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まとめ

今回は京都紫野の街歩きした時の様子をシェアしました。

テーマは源氏物語ですが、実は源氏にゆかりの深い京都紫野は牛若丸生誕の地でもあり、父の源義朝、母の常盤御前にゆかりのある史跡もたくさんのこされています。

また町名にも牛若町という地名があり、このあたりにも牛若丸産湯井があった場所がありますが、現在は住宅地として整備されてしまったようです。

このように京都は街中を歩くだけで様々な歴史を辿ることもでき、古地図を見比べながらいろいろ深堀していくのもおもしろいですね。

最後は紫式部墓所で締めくくりましたが、京都紫野に始まり、紫野で終焉を迎えた紫式部に手を合わせて散策を締めくくりました。

もしよかったらあなたも訪ねてみてはいかがでしょうか?

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この記事を書いた人
Kyotaro

京都在住、念願の京都に1戸建て住宅を新築購入した既婚の53歳、フツーの会社員。子供は3人で男ー女ー男の“二太郎+一姫”。将来は奥さんと京都でお洒落なカフェを営むことができればいいな、とささやかな夢を持っています。どうぞよろしくお願いします。

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