阿弥陀寺が織田信長公本廟である由縁と清玉上人との関係について

神社仏閣(観光)
[広告] 当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

京都在住のブロガーKyotaroです。

2020年は「明智光秀」が話題ですが、“本能寺の変”が起こった舞台裏での出来事について阿弥陀寺を訪ねた時に偶然、ご住職から直接お話を聞くことができました。

阿弥陀寺を開山された清玉上人のお墓をお参りしていたところ、たまたま通りがかれたご住職からお声がけ下さいました。

“本能寺の変”が起きて織田信長公が自害した6月2日の出来事、阿弥陀寺と豊臣秀吉公との確執について詳細にお話しくださった内容を今回はシェアします。

今回はいつもと違う形で阿弥陀寺の歴史を紹介します。

スポンサーリンク

阿弥陀寺開山の清玉上人と織田信長公の関係とは?

阿弥陀寺は1555年(天文24)に清玉上人が近江国坂本に開山した浄土宗の寺院です。

山号は「蓮台山(れんだいさん)」と称し、信長公の法名「そう見院」を冠する百万遍知恩寺の末寺。

戦国武将であった織田信長公が清玉上人に帰依し、信長公入洛の際に京都市上京区大宮町に移転しました。

清玉上人と織田信長公は幼い頃から兄弟のように育てられたといいます。

身寄りのない清玉上人が織田家で一緒に信長公と兄弟のように生活し、まるで本当の兄弟のように育ったそうです。

いわば、子供の頃から血の繋がらない兄弟のような関係だったんですね。

京都に移って来た阿弥陀寺は当時、塔頭寺院が20以上もあり、敷地も当時の京都御所を上回ろうかという大きさだったというから浄土宗寺院として強大な権力を誇っていたのです。

明智光秀はなぜ信長公の首を獲ることができなかった?

“本能寺の変”は歴史上有名な事件で誰もが知ってると思うのですが、なぜ「明智光秀」は「織田信長」に対して謀反を起こしたのか?

また、なぜ「明智光秀」は討ち取ったはずの「織田信長」の遺体すら見つけることができなかったのか?

このように“本能寺の変”には歴史上のミステリーが数々存在しているんですね。

なぜ「明智光秀」が謀反を起こしたのか?については諸説がありますね。

今回は、なぜ「明智光秀」が「織田信長」の遺体を見つけることができなかったのか?についてはご住職が教えて下さいました。

まるで“本能寺の変”の舞台裏?そんなことが?

あくまで阿弥陀寺に残る寺伝ということらしいのですが、1582年(天正10)6月2日に明智光秀が謀反を起こし、本能寺に攻め入ったという“本能寺の変”が勃発します。

その時、すでに清玉上人は本能寺の異変を察知して、僧徒20人ほどを連れて本能寺へと駆け付けていたといいます。

当然ながら表門は明智軍が厳重に固めているので、本能寺裏手の生垣から清玉上人らは本能寺に侵入、織田信長を探しますが、見つかったのはすでに自刃し果てた後の信長でした。

明智軍に見つかる前に、清玉上人は僧徒らとともに燃え盛る本能寺の炎で信長の遺体を火葬したそうです。

清玉上人自らの命も危うい中、この行為がかなり機転の利いた行動だったといえそうです。

本能寺の変があった跡地、実は現在の本能寺の場所ではないって本当?
2020年話題の明智光秀といえば“本能寺の変”で織田信長を討ち、日本史上でも大きな事件として現代に語り継がれています。でも現在の本能寺、実は“本能寺の変”のあとに豊臣秀吉が移築したもので当時の「本能寺」は全く別の場所にあったのをあなたはご存知ですか?そう本能寺跡地と現在の本能寺がそれぞれ別の場所に存在しているのです。

明智光秀が信長の遺体を見つけられなかった理由


清玉上人らによって火葬された織田信長の遺体は遺骨の状態になってそのまま阿弥陀寺に持ち帰られたと云われています。

その時、明智軍13,000人余りが血眼になって本能寺境内を駆けづりまわっても信長の遺体を見つけることが出来ませんでした。

討ち取ったはずの武将の遺体が発見できず、首を討ち取ることが敵わなかった明智光秀にすれば屈辱的な出来事だったでしょう。

“本能寺の変”後に清玉上人のとった行動

“本能寺の変”の後、清玉上人は明智光秀の陣を訪ねて戦の停止を申し出たのです。

スポンサーリンク

そして嫡子・織田信忠や森蘭丸など本能寺や二条城で自刃・討死した織田家中百余名の遺体を収容し供養することを申し出たと云います。

明智光秀も清玉上人の申し出を受け入れ、その後、清玉上人は阿弥陀寺で供養を行い、墓を建てました。

今回、阿弥陀寺を訪ねましたが現在も信長公はじめ百余名の討死した人たちの合祀位牌が現存し、供養されています。

阿弥陀寺と豊臣秀吉公に確執ができた理由とは?


織田信長亡き後、その後継ぎを狙っていたのは言うまでもなく豊臣秀吉(羽柴秀吉)公。

秀吉は阿弥陀寺に信長と信忠父子の遺骨があることを聞きつけ、清玉上人に詰め寄ったといいます。

後継者争いで優位に立ちたかった秀吉

秀吉の狙いは信長の一周忌を自らが仕切ることで後継者争いで優位に立とうとする事でした。

秀吉は清玉上人に信長と信忠の遺骨を引き渡すように申し出ますが、清玉上人はお墓に眠る遺骨をひっくり返して取り出すことは“人の道に反する”と反発して断ります。

清玉上人は織田家をないがしろにして権力闘争に眼が眩み、信長の後継の地位を得ようとする秀吉の行いが許せなかったのでしょう。

でもこの出来事が原因で阿弥陀寺は秀吉の反感を買うことになり、睨まれて確執が両者の間に出来る要因になるのです。

秀吉の反撃、都市計画で寺領没収された阿弥陀寺

清玉上人と確執の出来た秀吉は結局、大徳寺で信長の追善供養を行うのですが、遺骨ではなく、信長公木像を造って棺に納めたといいます。

その後、秀吉の都市計画に伴う寺町造成によって広大な寺領の大半を没収、縮小、移転させられて現在の場所に移ったといいます。

阿弥陀寺織田信長公本廟となったのは、実際に宮内庁による調査で阿弥陀寺の信長公之墓が廟所であると確認され、勅使の来訪があったからです。

阿弥陀寺へのアクセスと駐車場について


■阿弥陀寺
TEL:075-231-3538
〒602-0802 京都府京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町14
拝観時間 9:00~16:00
拝観料金 境内自由
アクセス 京都駅から市バスが便利
京阪電鉄鴨東縁「出町柳駅」下車、徒歩約10分
京都市営地下鉄烏丸線「今出川駅」下車、徒歩約15分
市バス4・17・205系統「河原町今出川」下車、徒歩約8分
駐車場 参拝者専用無料駐車場あり(50台)

まとめ

如何でしたでしょうか?

ご住職の話て頂いた内容は阿弥陀寺の書物に記載されており、その内容が寺伝として伝わっているようで、その内容をお話しいただきました。

清玉上人と織田信長は血の繋がりはないがまるで兄弟のような関係だったんですね。

清玉上人は“本能寺の変”で信長の危機を察知して駆けつけたり、秀吉への反発など真の兄弟かのように信長のことを思っていたことが伺い知れます。

ご住職の話には感銘を受けました。

毎年6月2日(信長公の命日)のみ「信長忌」勤修のため本堂の拝観と各種寺宝の公開が行われます。※本堂内は通常非公開。

境内拝観と本廟参拝は自由、水塔婆供養、朱印は年中無休です。

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました