京都在住のブロガーKyotaroです。
先日、本願寺水道を蹴上から東本願寺前の噴水まで辿りながらウォークしてると知恩院手前の京都東山の白川付近で「明智光秀の塚」という看板を発見。
綺麗な白川から住宅街に入っていくと小さな塚があり、ぱっと見、豪華なお地蔵さんが祀られたような祠がありました。
ここに祀られているのはなんとあの“光秀公の首”というではないか。そんな史跡がたまたま歩いてたこんなところに!?
詳しく見ていきましょう。
明智光秀の塚
明智光秀公といえば2020年話題の武将ですね。何と言ってもあの織田信長公を「本能寺の変」で討ち取ったのですから。
そんな日本の歴史を大きく変える戦を起こした「明智光秀公」ですが、最後はあっけない非業の死を遂げたといいます。
今回紹介する「明智光秀の塚」に残る言い伝えによると、主君である信長を討ち取り、天下を取ったかのように思われた明智光秀公。
でもその天下も長続きせず、「本能寺の変」の後すぐに「山崎の合戦」に敗れ「三日天下」と俗に言われますが、あっけなく天下の座を奪われ、命を落とすことに。
東山白川の住宅街にひっそり佇む首塚
白川沿いの「餅寅」という和菓子屋が目印でその角を曲がって20mほど進むと左手に小さな祠が現れ、これが「明智光秀の塚」なのです。
住宅街の地元の人しか通らないような細い路地にひっそりと佇む「明智光秀の塚」は思わず「これが?マジで!?」と思うような小さな祠です。
柵に囲まれるようになっており、その小さな敷地内に祠と五輪塔が建っており、殆どの人は祠をお参りして終わると思います。
でもこの五輪塔こそが「明智光秀の塚」そのものなのではないでしょうか?
諸説ある首塚の存在、どれがホンモノ?
ちなみに明智光秀の首塚はここ以外に京都府亀岡市の「谷性寺」にもあるのをご存知でしょうか?
首塚に関してふたつの説があるなかで明智光秀の末裔として有名な明智憲三郎氏によると東山白川の首塚が本物であると自らの著書である「本能寺の変431年目の真実」のなかで明らかにされてます。
地元住民の光秀公への敬愛を感じる瞬間
「明智光秀の塚」には“光秀公”の扁額がかかった祠があり、中には明智光秀公の木像が安置されてます。
また「明智光秀の塚」の敷地内には桔梗の花が初夏になると咲き誇ります。ここに桔梗の花が咲いてること自体、Kyotaroは偶然だとは思い難いのです。
そうなんです、実は明智家の家紋は「桔梗紋」であることから、地域の人々から明智光秀は愛され、この地に祀られてるとも言えるのではないでしょうか?
先ほど紹介の白川沿いにある和菓子屋「餅寅」の名物が「光秀饅頭」であり、桔梗紋の焼き印が入っています。こういうところに「光秀公への敬愛」を感じますね。
明智光秀の塚へのアクセス
■明智光秀の塚
〒605-0061 京都府京都市東山区三条通白川橋下る東側梅宮町474-23
アクセス
市バス/「神宮道」下車、徒歩約3分
地下鉄東西線/「東山」下車、徒歩約5分
本能寺
1415年(応永22)に日隆上人が創建した法華宗本門流の大本山で当初は“本応寺”と称していた。
いわずと知れた「本能寺の変」の舞台となるのであるが、1582年(天正10)に織田信長が明智光秀の襲撃によって自刃した場所として有名。
当時は30余りの宿坊を構えた大伽藍を有するなど非常に大きな寺院であったといいます。
豊臣秀吉の都市計画によって現在の地に移転、再建されたのが現在の「本能寺」だが、その後の江戸後期に発生した天明・元治の大火により堂宇は焼失。
現在の本堂は1928年(昭和3)に再建されたものです。
本能寺跡
現在の本能寺は「本能寺の変」の後に秀吉の都市計画によって移築、再建されたものです。
歴史上の「本能寺の変」が実際に起こった場所は現在の四条堀川周辺、正確には「油小路通蛸薬師」あたりにあったといいます。
現在は「本能寺跡」の石碑がありますが、老人デイサービスセンター、京都市立堀川高校が建っています。
実際にの寺域は東西150m、南北に300mあったと云われ、お寺でありながら周囲を高い塀と深いお堀で囲まれた要塞・城郭のような寺院であったといいます。
この要塞・城郭のような寺院なら身の安全を守ることができると信長は考えたのでしょう。
上洛の際に信長は本能寺に滞在するようになったと云われます。
まとめ
明智光秀公の京都におけるゆかりの地を紹介しました。
本能寺は歴史上でも有名ですが、現存する本能寺は実は豊臣秀吉の都市計画によって移築されたものだったんですね。
実際に「本能寺の変」があった場所は全く違う場所(油小路通蛸薬師)だったんですね。
「明智光秀の塚」は東山白川の目立たない住宅街にひっそりと佇んでおり、今でも地元の人々から信仰を集めています。
機会があればあなたも是非訪ねてみてください。
コメント