“京都はんなりずむ”を訪れて頂きありがとうございます。
京都在住のブロガーKyotaroです。
京都の由緒ある真宗大谷派の本山である「真宗本廟」、通称「東本願寺」の紹介です。
かつては「本願寺」と名乗っていた時代もあり、戦国時代には諸大名をも凌ぐ勢力を誇り、あの「織田信長」ですら手を焼いたといいます。
でも京都には「西本願寺」もあるけどどう違うの?と思う人やそもそもなんで分かれてるの?という人も多いはず。
そんな「東本願寺」の見どころと行き方、東西に分かれた理由など歴史的な観点からの豆知識についても紹介します。
東本願寺の行き方は?京都駅から歩いて行ける寺院
「東本願寺」は正式名称を「真宗本廟」といいますが、この記事内では分かりやすく通称の「東本願寺」として紹介します。
さてそんな「東本願寺」ですが、写真をみて頂いても分かる通り、境内の御影堂、阿弥陀堂など境内から「京都タワー」が見える距離にあります。
見えるといっても“すぐそこやん!”という距離なのがご理解頂けると思います。
東本願寺は京都駅から歩いて行ける
はい、「東本願寺」は京都駅から歩いて行ける距離にあります。
京都駅のすぐ北側に建つ「京都タワー」があり、そのさらに北側に「ヨドバシカメラ」があり、さらにその北側に「七条通」があり、その北側がもう「東本願寺」なのです。
「京都駅」の在来線ホームや地下鉄「京都駅」から歩いて5分、新幹線ホームからでも直行すれば7、8分で行けます。
そう、最寄り駅は「京都駅」なんですね。
東本願寺の行き方
「東本願寺」は京都駅から北に歩いて5分の距離なのでほぼ目印は「京都駅」ということになります。
市バスなら「烏丸七条」下車すぐの距離に阿弥陀堂門、すぐ北に御影堂門があります。
また市営地下鉄烏丸線「五条駅」からも徒歩5分の距離に位置し、ちょうど地下鉄烏丸線「京都駅」と「五条駅」の間を股にかけるような広大な境内となっています。
また、京都の主要個所からのアクセスについても紹介します。
四条河原町からだと市バス、もしくは阪急+地下鉄で「京都駅」を目指す、京阪七条からだと市バスで京都駅を目指す、もしくは歩いて目指す、といったところでしょうか。
目印がほぼ京都駅なので公共交通機関でも「京都駅」行きを利用すれば100%辿り着けますよ。
東本願寺の境内と見どころについて
「東本願寺」を実際に拝観してきた境内の様子と見どころについて紹介していきましょう。
寺院の境内としては京都でも大きく広い寺院に入ると思いますが、気になる拝観の所要時間も含めて紹介します。
東本願寺の境内と所要時間
「東本願寺」の境内は「御影堂」と「阿弥陀堂」が主な堂宇となっており、この2ケ所を拝観することになります。
お寺ですが拝観料はかかりませんので拝観時間内であれば誰でも自由に参拝することができます。
「御影堂」と「阿弥陀堂」を参拝して「ギャラリー」や「参拝接待所」のほか、ご朱印を授かったり境内を散策して40~50分の所要時間となります。
境内にある施設について詳しく見ていきましょう。
御影堂門
京都三大門のひとつに数えられる「御影堂門」は1911年(明治44)に再建された本瓦葺きの門で2019年(令和元)に国の重要文化財に指定されています。
とにかく大きな三門なので通りを渡った先にある“噴水”付近から撮影しないと全景が入りません。
ちなみに他の“京都三大門”とは当ブログでも紹介している「知恩院三門」「南禅寺三門」のことです。
手水屋形
1895年(明治28)竣工の手水舎で2019年(令和元)に国指定重要文化財となる。
龍の口から水が流れ出てる光景はどこか厳かな雰囲気が漂います。
※2021年5月現在、コロナ感染拡大予防のため使用出来ません。
御影堂
「御影堂」は1895年(明治28)に再建された「世界最大級の木造建築」と名高い建物となっています。
堂内には浄土真宗の宗祖である「親鸞聖人」がお祀りされており、阿弥陀堂とともに2019年(令和元)に国の重要文化財に指定されました。
1880年(明治13)から15年の歳月をかけて造られ、江戸時代に高度に発達をとげた木工技術、彫刻、工芸の粋をあつめて施工されました。
内陣は幸野楳嶺(こうのばいれい)や望月玉泉(もちづきぎょくせん)による明治の京都画壇を代表する画家による障壁画、襖絵が飾られてる豪華絢爛な堂内となっています。
阿弥陀堂
「阿弥陀堂」は「御影堂」と同じく1895年(明治28)に再建され、2019年(令和元)国指定重要文化財となりました。
「阿弥陀堂」は東本願寺の本堂にあたる建物で「御影堂」と並立するように建っており、高廊下で繋がっています。
御本尊は阿弥陀如来がお祀りされています。
鐘楼
「阿弥陀堂門」入って境内すぐ左手にある「鐘楼」は1894年(明治27)に再建された総欅造りの建物で2019年(令和元)国指定重要文化財となりました。
撞鐘は1604年(慶長9)に鋳造されたものと云われ、東本願寺にある数少ない創建当時から残る遺構となっており、現在は阿弥陀堂門を挟んだ反対側に展示されています。
現在の撞鐘は2010年(平成22)に新調されたものが吊り下げられており、梁材には棟梁である伊藤平左衛門の考案によるX字型に架けられる独創的な工法が用いられてることで有名。
阿弥陀堂門
「阿弥陀堂門」は1911年(明治44)に再建され、2019年(令和元)に国の重要文化財に指定された檜皮葺屋根の門となっています。
切妻造・唐破風付の四脚門でかつて下珠数屋町通の正面に建っており、江戸時代には「唐門」と呼ばれていたと云います。
その名の通り、境内正面には「阿弥陀堂」が建っています。
東本願寺の見どころについて
ここでは「東本願寺」の見どころについて紹介します。
「御影堂」「阿弥陀堂」など境内の諸殿以外の見どころについて詳しく見ていきましょう。
世界最大級の木造建築「御影堂」
「御影堂」の建物の大きさには圧倒される、と紹介しましたが、実際に見てみると感想は「でっか!」というのがKyotaroの印象です。
写真では分かり辛いかもしれませんが、「御影堂」前の人影と比較すればご理解頂けると思います。
具体的にその大きさは正面76m、側面58m、高さ38mの規模を誇り、大屋根には約175,000枚の瓦が葺かれており、内陣・外陣に敷かれた畳をあわせたら927畳という、まさに「世界最大級の木造建築」というわけです。
確かにその大きさに圧倒されますが、その規模は滋賀県と京都府の県境「霊峰・比叡山の山頂」から京都市内方面を眺めても肉眼で捉えることができるほどです。
<知恩院御影堂2020年10月撮影>
実際に見てみると知恩院の御影堂より大きいことは肌で感じることができます。
東本願寺慶長撞鐘
1602年(慶長7)に徳川家康から京都烏丸六条に寺地の寄進を得た教如上人が1604年(慶長9)御影堂の造営に合わせて鋳造した撞鐘と云われています。
総高256㎝、口径156cmあり、慶長末年以降の鐘としては全国で5番目の大きさを誇ります。
鐘の銘文には、池の間の各区に一行ずつ「本願寺」「信浄院」「慶長九暦」「五月廿八日」と陽鋳文字があります。
また、撞座のない縦帯二箇所にも各々同文で「大工大坂浄徳」の鋳物師の名が陰刻されています。
親鸞聖人について展示のギャラリー
境内北側、参拝者の休憩、礼金、志納、寄付の窓口でもある参拝接待所に隣接する形で蓮如上人五百回御遠忌の記念事業として1998年(平成10)に「真宗本廟視聴覚ホール」が竣工。
その際に設けられたギャラリーには宗祖「親鸞聖人」に関する史料、東本願寺の法宝物の展示がされています。
ギャラリーへは「御影堂」から高廊下でも繋がっており、「御影堂」参拝後にそのまま靴を履かずに行くことができます。
参拝者は自由に「参拝接待所」が利用でき、「ギャラリー」も見学することができます。※入場に関する費用はかかりません。
両堂再建に貢献した毛綱と大橇
「御影堂」から「阿弥陀堂」へと繋がる高廊下に“ある展示”がされています。
東本願寺(真宗本廟)の両堂は4度の火災に遭い焼失してきた歴史がありますが、両堂には入所困難な巨木が数多く使われており、全国各地から木材が集められていました。
その両堂の再建のため越後国の欅巨木を運搬していた際の「大橇」とその大橇を引いていた女性の髪の毛と麻を撚り合わせて編まれた「毛綱」の展示です。
そんな再建のための材木運搬作業中、越後国頸城郡川谷村(現上越市吉川区川谷)の尾神嶽で切り出した欅巨木を運搬していた1883年(明治16)3月12日午後2時頃に雪崩が発生、27名が死亡する事故がありました。
その「尾神嶽殉難事故」を再現した模型とともに展示されています。
境内から見える京都タワー
「東本願寺」の境内はとても広大な敷地で「御影堂門」から「御影堂」、「阿弥陀堂門」から「阿弥陀堂」まで結構、距離があります。
「御影堂」が「世界最大級の木造建築」という影響もあってか、境内が広々としている印象で特に建物もそこまで多くないので「京都タワー」が借景のごとくそびえ立っています。
歴史ある「東本願寺」の諸殿と近代的な「京都タワー」が一枚の写真に収まる“今昔物語”のようなSNS映えする一枚が撮れます。
ポイントは「御影堂」正面階段のいちばん北側付近(御影堂門から向かっていちばん右端)からだと「御影堂門」と「阿弥陀堂」まで入った写真が撮れますよ。
夜の御影堂門が幻想的
東本願寺の「御影堂門」もライトアップされていて夜間でも写真が撮ることが可能です。
スマホでとっても充分綺麗に撮れるので行く機会があればぜひ写真に収めてみて下さい。
また京都タワーのライトアップや京都駅の大階段でのイルミネーションも見ごたえがあります。
京都駅周辺に泊まるとこのような特典があるんですね。
東本願の歴史にまつわる豆知識
「東本願寺」は真宗大谷派の本山で正式名称を「真宗本廟」といいます。
宗祖である親鸞聖人の門弟らが宗祖の遺骨を京都市東山山麓の大谷から現円山公園近く吉水の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したのが始まりとされます。
その後、親鸞聖人の娘である覚信尼が門弟から廟堂をあずかり「留守職(るすしき)」として真宗本廟の給仕を努めたことでも知られています。
以来、真宗本廟は親鸞が開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として親鸞の門弟たちによって護持されてきました。
東本願寺沿革
東本願寺(真宗本廟)は第3代覚如上人の頃に「本願寺」の寺号を名乗るようになります。
その後の寺院化の流れにともない、御本尊を安置する本堂として「阿弥陀堂」が「御影堂」とは別に並存する現在の形になりました。
以来、東本願寺(真宗本廟)は親鸞の御真影を安置する「御影堂」と御本尊を安置する「本堂(阿弥陀堂)」の両堂形式となったのです。
その後戦国時代を迎えた、第8代蓮如上人の時に教化に努め、宗祖である親鸞聖人の教えをひろく民衆に広め「本願寺教団」として勢力を拡大していくのです。
この功績を称え蓮如上人は真宗大谷派の間で「真宗再興の上人(中興の祖)」と仰がれるようになりました。
信長でも手に負えない存在だった?
時代は戦国の世、諸大名による群雄割拠の時代に浄土真宗の本願寺を“一向宗”と呼ぶようになり、各地で時の権力者に抵抗する“一向一揆”が勃発し始めます。
その影響により本願寺は宗教団体から戦国大名と対等に渡り合う武闘派の集団へと変貌を遂げていきます。
後に天下統一を目指す織田信長の台頭により、ついに本願寺教団との衝突が始まり「石山合戦」勃発、約10年間も続く激戦へと発展。
本願寺の勢力を軽く一蹴しようとした織田信長も約10年もの歳月を要し“一向一揆”の平定に時間がかかってしまったのです。
各地で勃発した“一向一揆”や「あの信長でさえも手こずった」その戦果に秀吉、家康など諸大名も「本願寺」には一目置くようになり、その勢力を警戒していたといいます。
東本願寺と西本願寺なぜ分かれた?
本願寺はなぜ東本願寺と西本願寺に分かれてしまうのか?そのカギを握っていたのは織田信長亡き後、世を平定した豊臣秀吉と徳川家康が原因でした。
信長暗殺の後、豊臣秀吉の時代がやって来ますが、当時の本願寺は第11代顕如上人の時代。
顕如上人没後に長兄の教如上人が本願寺を継ぐことになりますが、秀吉から隠退処分を喰らい結果、三男の准如上人が本願寺を継承(現在の西本願寺の地)することとなります。
これに納得のいかない長兄の教如上人はその後も水面下で活動を続け、秀吉没後の1600年(慶長5)関ヶ原の戦いを経て徳川家康から京都烏丸六条と七条間の地を寄進されます。
これが「本願寺」が「西本願寺」と「東本願寺」に分かれた歴史の概要です。
徳川家康は教如上人がくすぶったまま勢力を拡大し、再び“一向一揆”みたいな暴動を起こされてはたまらない、ということから土地を分け与え平定したといわれています。
東本願寺へのアクセスと駐車場について
●東本願寺(真宗本廟)
TEL:075-371-9181
〒600-8505 京都府京都市下京区常葉町754
■拝観料金 境内自由
■拝観時間 ※季節により異なる
・3月~10月 5:50~17:30
・11月~2月 6:20~16:30
※法要、行事により異なる場合あり
■アクセス ※京都駅より徒歩5分
・京都駅下車、徒歩5分
・市営地下鉄烏丸線「五条駅」下車、徒歩5分
・市バス「烏丸七条」下車、徒歩1分
■駐車場 専用駐車場なし・注意
まとめ
京都駅からいちばん近い寺院「東本願寺」こと「真宗本廟」の紹介でした。
京都には堀川通沿いに「西本願寺」があり、なぜ「本願寺」が東西に分裂したのか?歴史を紐解くとあの織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の影響が強かったんですね。
京都の寺院ですが、当時は比叡山延暦寺といい、本願寺といい、諸大名と同じくらいの勢力を誇る武闘集団だったというから驚きですね。
「東本願寺」には“心静かにお参りください”という案内があるくらいですが、“武闘集団”だった過去が想像できません。
京都の歴史もこういう観点から深堀りすると面白いもんだな~、と勉強になります。
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