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京都在住のブロガーKyotaroです。
今回は京都駅から歩いてける“京都の借景庭園”のひとつで歴史の舞台にもなってきた「名勝渉成園(枳殻邸)」の紹介です。
「渉成園」は東本願寺(真宗本廟)の飛地境内で“池泉回遊式庭園”が美しい名勝として知られています。
京都のど真ん中にこんなに美しい名勝庭園があることに感動させられます。
詳しく見ていきましょう。
渉成園(枳殻邸)の見どころを2つの視点で楽しむ
ここでは渉成園(枳殻邸)園内の見どころを楽しむ2つの視点を紹介しましょう。
見学に要する時間は約40分、ゆっくり廻って50分、速足なら30分以内で観光することができます。
東本願寺(真宗本廟)からは御影堂門前の横断歩道経由で徒歩約5分の距離、東本願寺の真東に位置する「飛地境内」としても有名です。
渉成園十三景と諸建築
渉成園は広さ約10,600坪の敷地を誇り、庭園東側には大小2つの池、庭園西側には数棟の茶室や園林堂(持仏堂)など書院群からなる「池泉回遊式庭園」となっています。
園内には諸建築の他、様々な史跡が残されており、美しい庭園散策をしながら楽しむことができます。
東山三十六峰の「阿弥陀ケ峰」を借景にした庭園ですが、反対側を振り返ると侵雪橋の背景に「京都タワー」を借景にしたロケーションとなっています。
ここでは渉成園十三景と諸建築について見ていきましょう。
臨池亭(りんちてい)と滴翠軒(てきすいけん)
渉成園入ってすぐ左に広がるのが【渉成園十三景の一】「滴翠軒(てきすいけん)」です。
吹放しの廊下で繋がっている「臨池亭(りんちてい)」とひとつの建物のように感じる造りで建物前に広がる池との景観がとても美しい場所になっています。
「臨池亭」は1884年(明治17)に再建、「滴翠軒」に対して「喫茶居」として活用されていました。
「滴翠軒」は1884年(明治17)に再建された建物で緩やかな屋根が深く軒を差し出し、縁側が池中に張り出しているのが最大の特徴です。
「滴翠軒」の名は対岸の池に落ちる小滝(滴水)から名付けられたと云われています。
代笠席(たいりつせき)
庭園内北部に位置し、生垣に囲まれた建物が「代笠席(たいりつせき)」で1888年(明治21)に再建。
内部非公開で東西に四畳半二室が並ぶ「煎茶席」となっており、前面は間口が三間、深さ半間の土間と小縁が設けられています。
園林堂(おんりんどう)
「園林堂(おんりんどう)」は傍花閣に対する持仏堂で1957年(昭和32)の再建となっています。
正面四間で中央間に桟唐戸(さんからど)を吊る仏堂風な意匠が特徴的な建物です。
「園林」とは古来、中国宮廷に設けられた巨大な庭園を意味しますが、仏典では浄土を表す表現で同じ名称の持仏堂が桂離宮にもあります。
傍花閣(ぼうかかく)
「園林堂」の東正面、山門にあたる位置に建つのが【渉成園十三景の二】に数えられる「傍花閣(ぼうかかく)」です。
渉成園では珍しい楼門造りとなっており、左右側面には山廊と呼ばれる階段の入口があり、階上には四畳半の部屋があります。
内部は非公開ですが四畳半の部屋の天井には磁石版に十二支を配した珍しい図様が描かれてることでも有名です。
印月池(いんげつち)
【渉成園十三景の三】となる「印月池(いんげつち)」は池泉回遊式庭園の中心となる池。
大きさ約1,700坪と庭園全体の6分の1にあたる広さを誇り、水の透明度が高い池です。
東山から上る月影を水面に美しく移すことからその名が付けられました。
臥龍堂(がりゅうどう)
【渉成園十三景の四】「臥龍堂(がりゅうどう)」は「印月池」に浮かぶ南大島のことですが現在、島の上にお堂はありません。
かつて南大島に建てられた「鐘楼堂」の呼び名が現在も島の名称となっていますが1858年(安政5)の安政の大火によって焼失後、再建されておらず、現在は礎石のみとなっている。
五松塢(ごしょうう)
【渉成園十三景の五】「五松塢(ごしょうう)」は「印月池」に架かる「侵雪橋」を渡った島の北側周辺を指し、五株の松が植えられていたことからその名が付けられました。
南大島「臥龍堂」とその北側に位置する島にある「五松塢」は高瀬川の旧流路などから豊臣秀吉が築き上げた「御土居」の跡ではないか?との説が浮上しています。
侵雪橋(しんせつきょう)
【渉成園十三景の六】「侵雪橋(しんせつきょう)」は「印月池」の西北岸から「縮遠亭」のある北大島に架かる木造反橋です。
この橋の上から眺める「京都タワー」を借景にした庭園はまさに“インスタ映え”スポットです。
縮遠亭(しゅくえんてい)
【渉成園十三景の七】に数えられる「縮遠亭(しゅくえんてい)」は北大島に建てられた茶室の事です。
西側入口の土間から奥へ入ると茶室があり、その南端から斜めに続く板間を経て三畳敷の上段の間が連結されています。
上段の間は舞台造りになっていてかつてはここから東山三十六峰のひとつ「阿弥陀ケ峰」が見事に見えていたといいますが、現在は見ることが出来ません。
紫藤岸(しとうがん)
【渉成園十三景の八】「紫藤岸(しとうがん)」とは「回棹廊」の東(背後)、印月池の岸にせり出すように続く藤棚のことです。
もともと野生の藤でしたが、現在は藤棚として整備されています。
偶仙楼(ぐうせんろう)
【渉成園十三景の九】「偶仙楼(ぐうせんろう)」は安政の大火による焼失後に再建されましたが、蛤御門の変によって再び焼失、その後は再建されず現在は見ることが出来ません。
「閬風亭」付近にあったとされる高楼で伏見城から移築された桃山風の大書院に付随した高楼であったと云われています。
蘆庵(ろあん)
「蘆庵(ろあん)」は二階建ての茶室で一階は七畳で西側に床を構え、二方に縁があります。
二階は主室四畳半に台目三畳の次の間があります。主室の二方肘掛窓からは眺望を楽しむことができる煎茶席となっています。
前庭の路地には珍しい形の屋根が特徴的な中門があります。
双梅檐(そうばいえん)
【渉成園十三景の十】「双梅檐(そうばいえん)」は紅白20株が植えられた梅林で毎年2~3月にかけて花が咲き、甘い香りを漂わせています。
庭園出口の手前にあり、梅林の花がなければ気付かずに通り過ぎてしまうレベルです。
漱枕居(そうちんきょ)
【渉成園十三景の十一】「漱枕居(そうちんきょ)」は「印月池」の最南端にあり、まるで水上に浮かぶかのように建てられた茶席のひとつで1865年(慶応1)頃に再建。
「縮遠亭」の飯店、「代笠席」の茶店とともに「煎茶三席」の“酒店”として「漱枕居」は用いられたと云われています。
ひとつの園内に「煎茶三席」が現存するのは珍しい例となっています。
回棹廊(かいとうろう)
丹楓渓と北大島を結ぶ木橋が「回棹廊(かいとうろう)」で【渉成園十三景の十二】に数えられます。
安政の大火による焼失前は朱塗の欄干を持つ反橋であったと云われ、現在は檜皮葺の屋根がある木橋となっています。
中央の唐破風屋根が特徴的でここからの景色は額縁庭園として写真に納められるスポットにもなっています。
丹楓渓(たんぷうけい)
【渉成園十三景の十三】「丹楓景(たんぷうけい)」は「印月池」の北岸に位置し、楓がたくさん植えられており、初夏には“青もみじ”、秋になると“紅葉”が楽しめます。
丹楓渓より振り返るとちょうど「侵雪橋」と「京都タワー」の景観が広がり「今昔物語」のような光景が楽しめます。
「丹」は朱色を表し、紅葉の美しい渓谷を表現しており、回棹廊とのコントラストも格別な景観を演出しています。
閬風亭(ろうふうてい)
園内最南端にある大広間を「閬風亭(ろうふうてい)」と呼びます。
内部は非公開ですが、室内より前庭を隔てて東山三十六峰の「阿弥陀ケ峰」を借景とした園池の雄大で美しい風景を眺めることができます。
この光景は入園の際に頂ける冊子パンフレットの表紙にもなっています。
室内は畳を外して能の舞台として使われたり、大広間北西に続く一室「嘉楽」は付書院を備えた八畳間で明治天皇が1880年(明治13)に訪れた際、休息に使われた場所でもあります。
「嘉楽」の間には渉成園を造園した石川丈山による「閬風亭」の扁額があります。
大玄関
1880年(明治13)7月に明治天皇が京都に来られ渉成園で休憩された際に東本願寺境内に残る宮御殿とともに大宮御所から移築を約され、移されてきた玄関。
正面四間の切妻造の壮大な車寄に二間の内玄関が特徴的な建物で内部には八畳二間の部屋があります。
大玄関正面には今でも「馬繋ぎ」がそのまま残されており、当時の面影を現在に残す形になっています。
渉成園の名物・景物
続いて渉成園に残された史跡の紹介です。
こちらは風景というよりは歴史を感じる名物・景物が中心の紹介となっています。
園内散策時は注意してひとつひとつの歴史をかみしめながら散策するとまた違った視点で「渉成園」を楽しむことができます。
中にはうっかり見過ごしてしまうものもありますので入園時に配布される冊子内の渉成園イラストマップをよく見ながら散策しましょう。
高石垣
西門(入場門)入って正面にある高石垣。
石橋のように長い切石や礎石、石臼、山石から屋根瓦など多彩な素材が組み合わされた珍しい石垣となっています。
檜垣の燈籠
「滴翠軒」の東側に建つ石燈籠でアンバランスな変わった形が印象的な燈籠です。
名称の由来については不明と云われています。
亀の甲の井戸
「代笠席」の生垣の傍にある井戸の史跡。
上から見ると亀の形に石組がされており、甲羅の部分に井筒が埋められて井戸になっています。
獅子吼
「印月池」の水源のひとつでかつては高瀬川の水が引かれていましたが、現在は地下水をくみ上げています。
回棹廊の手前にあり、自然と湧きだす泉のような石組となっており、思わず足を止めて見入ってしまう景物です。
蘆庵の春日燈籠
「蘆庵」の露地に立つ石燈籠で江戸初期の作と云われています。
六角形の笠の屋根は降り積もった雪をイメージして刻まれているのがわかります。
源融ゆかりの塔
「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルとなった源融(みなもとのとおる)の供養塔で九重の塔となっており、塔身には四方仏が刻まれている。
鎌倉中期に造られたと推定されるが、渉成園が完成する前からこの付近にたっていたものと云われ、現在の笠は宝筐院塔の笠で代用されており、本来の笠は失われています。
塩釜の手水鉢
北大島の「縮遠亭」の傍にある手水鉢で全国にある「塩釜の手水鉢」の手本となるオリジナルと云われます。
渉成園の景物の中で最も重要な史跡のひとつでもとは石造宝塔の塔身を手水鉢に転生したものと云われ、鎌倉時代に造られたとみられている。
碧玉の石幢
通常の石燈籠とは違う「石幢」で、笠の部分には蕨手と呼ばれる装飾が付いておらず、竿に節がないなど独特の特徴があります。
碧玉というわりに石質自体が全然青みがかっておらず、名前の由来は分かっていません。
塩釜
北大島の「縮遠亭」がある築山の麓におおきな窪みがあり、石組の横穴が設けられている。
石組の横穴の底には井筒があり、井筒の形が塩を製造する塩釜とそれを屋根で覆う塩屋に似ていることから“塩釜”と呼ばれています。
「縮遠亭」での茶会の際の水源として利用されていたと見られますが現在、水は枯れています。
渉成園(枳殻邸)と本願寺水道
渉成園(枳殻邸)はかつて高瀬川の水を引いていましたが、川の水位が明治以降下がったため、別の方法で水を引く必要が出てきました。
現在は「本願寺水道」から導水しており、「滴翠軒」の対岸にある滝の水がまさに「本願寺水道」から導水された水で現在も園内の「印月池」に注いでいます。
そもそも「本願寺水道」とはどういった水道なのでしょうか?
歴史的背景を交えて詳しく見ていきましょう。
焼失の歴史を繰り返した本願寺
東本願寺は歴史上3度の焼失にあっており、1864年(元治元)の蛤御門の変で焼失し、1880年頃からようやく再建工事が始まりました。
境内の防火対策が至上命題となっていた東本願寺ですが、琵琶湖疎水を完成させた田辺朔朗博士に疎水を東山の蹴上から分水して欲しいと依頼。
蹴上から琵琶湖疎水の水を分水し、東本願寺の境内まで導水して防火用水にする計画を起こして実行にかかります。
京都の地下に埋設された近代化遺産
工事は1894年(明治27)に始まり、1897年(明治30)に完成、「本願寺水道」と名付けられました。
東山の蹴上で分水された水は祇園白川に流入し、四条通に埋設した水道管から建仁寺近くの地下水路を通り、五条大橋の下を通って「渉成園」を経由して東本願寺境内へ。
この工事を3年余りで完成させてしまう当時の日本の技術力には目を見張るものがあり、「本願寺水道」はまさに近代化遺産の象徴となったのです。
渉成園で生息する琵琶湖の魚たち
渉成園に流れる水は本当に綺麗な水で池も広くて浅めですが、水が透き通るように綺麗なのも「本願寺水道」として水の流れがあるから。
この琵琶湖疎水から分水した「本願寺水道」の影響もあり、渉成園の印月池では琵琶湖に生息する魚が見られるなど生態系の部分でも影響を受けているのです。
渉成園(枳殻邸)へのアクセスと駐車所について
●名勝渉成園(枳殻邸)
TEL:075-371-9210
〒600-8190 京都府京都市下京区下珠数屋町通間之町東入東玉水町
開園時間 季節により異なる
・3~10月 9:00~17:00
・11~2月 9:00~16:00
庭園維持寄付金
・大人500円以上、高校生以下250円以上
アクセス 京都駅から徒歩10分の距離
・市バス「烏丸七条」下車、徒歩5分
・市営地下鉄烏丸線「五条駅」下車、徒歩7分
駐車場 専用駐車場(無料30台程度)あり
まとめ
京都の街中、京都駅の近くにこんなにも美しい庭園があるのか?という感動を与えてくれる名勝庭園「渉成園(枳殻邸)」の紹介でした。
東本願寺(真宗本廟)の飛地境内ですが、東山・阿弥陀ケ岳を借景にした池泉回遊式庭園です。
あの詩仙堂で有名な石川丈山が作庭の名勝庭園で明治天皇をはじめ、徳川慶喜公、ロシア皇太子のニコライ二世など歴史上の人物も訪れた史跡です。
東本願寺の参拝とセットで訪れる人も多く、京都駅からともに歩いて行ける距離なのでコンパクトに観光できるエリアとして人気です。
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