京都四条河原町から東山三条まで幕末歴史ウォークを楽しもう

京都街歩き
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京都大好きブロガーのkyotaroです。

京都は観光地としても魅力的ですが、日本史を語る上でも外せません。

特に幕末動乱の時代は京都を舞台とした歴史が動く瞬間の出来事が沢山あり、その史跡が街中のあちこちで見ることができます。

特に新選組坂本龍馬佐久間象山など京都を舞台に活躍した志士の足跡も多数残されており、普通に街歩きをしながら楽しめます。

今回はそんな何気ない、日常のなかに現在も佇む歴史の舞台を紹介します。

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幕末の風雲児こと坂本龍馬の足跡を辿る

京都四条河原町から三条の間は、京の街の繁華街として幕末の志士たちも集結した場所。

この限られたエリアには坂本龍馬の足跡がたくさん残されています。詳しく見ていきましょう。

坂本龍馬が暗殺された近江屋跡

京都の四条河原町を起点に河原町通の西側歩道を三条に向けて北上すると最初に辿り着くのが「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」。

ここは坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋の跡地であり、現在は「かっぱ寿司」になっています。

龍馬は海援隊本部が置かれていた酢屋(材木商)に下宿していたのですが、暗殺される前年にも京都伏見の寺田屋で幕府からの襲撃を受けており、密かに近江屋に移っていたのです。

寺田屋事件」といえば“おりょうさん”が入浴中に龍馬が襲撃を受けた出来事で、おりょうの気転により何とか龍馬は一命を取り留めたという歴史上有名な出来事ですね。

その翌年、近江屋で刺客により襲撃を受けた龍馬はその場で絶命、中岡慎太郎も二日後に亡くなったといいます。

大政奉還が行われた1ケ月後の奇しくも龍馬の誕生日である1867年11月15日夜の出来事でした。

龍馬の京都での下宿先「酢屋」

坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」からさらに北上、三条通りの一筋南側の通りを右折すると「酢屋」があります。

当時の面影を残す佇まいで「酢屋」の看板が目に入り、建物の前には「坂本龍馬寓居之跡」の石碑が建ちます。

ここは土佐藩海援隊の本部でもあり、今でも「酢屋」は史跡として当時の海援隊メンバーの氏名が記された木板が遺されています。

現在は「創作木工芸 酢屋」として主に木工芸品の製作販売を行う傍ら、二階には「ギャラリー龍馬」として大政奉還を目指した龍馬と酢屋の歴史を紹介している。

■ギャラリー龍馬(酢屋2階)
営業時間:10時30分~17時
休業期間:水曜日、年末年始
入場料 :500円(追悼展時は600円)

坂本龍馬とお龍「結婚式場」跡

京都の東山三条近くの三条通り沿いに「坂本龍馬とお龍結婚式場跡」の碑があるのをご存知ですか?

1864年8月に青蓮院旧境内にあった塔頭金蔵寺の本堂にて内々に結婚式を行ったといいます。

現在は青蓮院門跡の境内も縮小、塔頭寺院金蔵寺も今はなく、石碑が残るのみとなります。

お龍の父である楢崎将作が青蓮院宮に使えた医師であった縁でこの地が選ばれたのでは?といわれています。

 

京都四条河原町から東山三条には龍馬の全盛期、幸せ、そして壮絶な最期となる史跡が普通に歩くだけで訪ねることができます。

京都はなんとも奥深い街並みであちこちにこのような史跡が残っています。これも京都散策の楽しみのひとつですね。

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江戸末期の思想家・佐久間象山の足跡

京都の三条木屋町、木屋町通り沿いに流れる高瀬川のほとりに「佐久間象山先生遭難之碑」があります。

信州松代藩の出身で幕末の思想家として活躍、儒学や朱子学を修学し、西洋科学日本導入の先駆者として殖産興国の功労者。

あの吉田松陰をはじめ、勝海舟、坂本龍馬ら傑物を輩出しているのですが、自信過剰な性格が災いして敵も多く、高杉晋作からは「大法螺吹き」呼ばわりされてたといいます。

一橋慶喜公に招かれ上洛しますが、尊王攘夷派の潜伏拠点である京都は象山にとって「西洋かぶれ」という印象を持たれ、命を狙われるとても危険な場所でもあったのです。

傲慢な性格から京の街を歩くときも護衛を連れずに歩いてたといい、1864年7月11日に三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎の手によって暗殺され、54年の人生を終えます。

佐久間象山先生遭難之碑」から三条木屋町を北上してすぐ木屋町通り東側に「佐久間象山寓居之跡」があります。

ちなみに明治維新後、明治2年に佐久間象山が暗殺されたほぼ同じ場所で長州藩出身の軍事指導者として活躍した大村益次郎も「廃刀論」を展開し暗殺された史跡となっています。

幕末京都の守護職「新選組」の名をあげた事件


京都四条河原町から三条通までは江戸末期も歓楽街であり、その町の見回りに当たっていたのが「新選組(1863年~1869年)」でした。

新選組とは町のお巡りさんであった?

当時、京都には「京都見廻組」という部隊もあり、幕府要人の警護が専門のエリート集団、対する「新選組」は京の歓楽街警備を担当していたといいます。

現代に置き換えると「京都見廻組」は政府要人警護のエスピー、「新選組」は街中を巡回する派出所のお巡りさんといった感じでしょうか?

新選組を一躍有名にした「池田屋騒動」

でもそんな“街中のお巡りさん”を一躍有名にし、エリートの仲間入りとなる武士の身分に取り立てられた出来事が「池田屋騒動」です。

池田屋騒動」は新選組結成の翌年1864年6月に起こります。

長州、土佐、肥後の浪士たちが「京の街に風が強く吹く日にあわせて御所に火を放ち、幕府の将軍を暗殺し、天皇を長州へ連れ去る」という情報を手に入れた新選組。

会津藩500名の応援部隊を待つもなかなか到着しないことに痺れを切らした局長の近藤勇と副長の土方歳三は二手に分かれて捜索を開始。

近藤隊10名が旅館池田屋で浪士たちを発見、襲撃したのが歴史上有名な「池田屋騒動」です。

「御用改めでござる!」の掛け声で始まった戦闘

この時、池田屋にいた浪士たちは20名以上、近藤隊は半数以下の10名と数は圧倒的不利でしたが、近藤局長は池田屋に踏み込むことを決意。

近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂兵助の4名で池田屋内部へ突入、残る6名は3名ずつ表口、裏口を固めるという作戦。

近藤の「御用改めでござる!歯向かう者は容赦なく切り捨てる!!」という掛け声とともに近藤隊4名VS浪士20名以上の激しい戦闘が始まり、1時間以上続いたといいます。

途中、沖田の持病による吐血、藤堂の負傷による戦線離脱で形勢不利になるも土方隊24名が加勢して制圧、戦闘は終了したのです。

池田屋騒動」によって一躍有名になった新選組はこれを機に活躍の場を広げ、30名であった隊士は200名以上にまで増えるが、活躍の期間はその後5年で終わりを告げる。

維新史跡「池田屋騒動之址」は現在、“池田屋花の舞”という居酒屋になっています。

まとめ

幕末のヒーロー坂本龍馬、龍馬やその師である勝海舟を育てたという佐久間象山、そして幕府の京都守護職として活躍した新選組の史跡めぐりを紹介しました。

神社仏閣にも史跡はたくさん残る京都ですが、街中にもあちこち石碑や紹介看板が立ってるので、歴史を辿りながら京の街を散策するのもおすすめです。

何気なく歩いてる繁華街の片隅に、幕末の志士たちの活躍や事件の跡が記されているのも京都ならではですね。

いずれも徒歩1~5分以内の距離に散在してるので歴史好きは結構、ハマるかも。

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